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くどくどと書き記したい日もあって

  • 執筆者の写真: Shino Omura
    Shino Omura
  • 5月3日
  • 読了時間: 3分

私は筆無精。


と書くと、筆の無い人物に宿る精霊のような響きを覚えるのは私だけでしょうか。


筆無精なのでブログは長続きした試しがありません。日記ですらも。

ですが、自分が介在したものについて、自由にその過程を記録する時間を大切にしたいと思ったり、とりとめのない言葉や思いを、誰かに向けて綴りたくなる時があります。


求められるわけでもないのに、突然語り出すわけにもいかないので、こうして自分の箱庭を公開して、覗き見たい人に見にきてもらうのはどうか。と思い、記していくことにしました。


ここは私の箱庭なので、思うまま、自由に言語を栽培したいと思います。

ときには不恰好であったり、散らかっていたり、植えたり引っこ抜いたり。

決して美しいものばかりではないのですが、そのとき活きているものを記したいのです。


作者が自分の作品について饒舌に語ると、「無粋である」とか、「作品で語る能力が無い」だとか、しばしばそういった批判に晒される光景を目にしたり、単純に黙っている方がかっこいいなと思うこともあって、へらへらしていたのですが…


本当は「アーティスト」と呼ばれることや、自らの介在したものが「作品」と呼ばれることに対して、(決して嫌なわけじではないのですが)少し気はずかしいような、違和感を覚えながら活動しているので、そのことについて弁明したい自分もいるんじゃないかなぁ、と思って見つめているところです。


私の自己定義上では、「アーティスト」であることよりも「市民」であることが上位にあって、それを凌ぐ最上位(現時点で)は「自然生物であること」になっているのですが、世間一般的には逆の順番で他者を扱うことが多いと思うので、そこに違和感を覚えているのかなぁ、と考えてみたりしています。(ちなみに世間感覚でその順番になる事は、利便性などを考えると充分納得ができる事だと思っています。)


そして、「自身を介したものを請負う」という心持ちで、クレジットされたものは便宜上「作品」と呼んでいただいたり、そう呼ばせていただいているものの、感覚的には「何らかの自分以外のものとの邂逅を消化したあとの排泄物」に他ならないのです。


排泄物という表現は、巷には「汚い物」だとか、「行き場のない迷惑」を含むような意味合いで使われることが多いものの、私は実質的に考えれば自然界の循環性の権化だと思っているので、実はとても妥当な表現として、気に入って使っています。


私も、私が介在したものも──生まれて、役割を果たし、戻って、また生まれる、その自然のリズムサイクルに他ならないのだと──そう思いたいのかもしれません。


こんな話は、普段お仕事をいただいたりするときに話すことはないのですが…私の音楽が社会経済に内包されながらも、自然物としても存在できていたらいいな。

そんなふうに思いながら、お話を聞かせていただいています。


さて、一通目にして、このとりとめのなさですが、

どうかこれからも見守っていてください。


草々


​かしこ

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